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【究極の独学術】
リベラルアーツを学ぶための
独学のコツとは?

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『究極の独学術 世界のすべての情報と対話し学ぶための技術』著者:瀬木比呂志を一部抜粋している記事です。
本書の内容が詳しくわかるようになっています。

独学が必要な理由

普通、独学といえば、一人で書物を読むことが中心になると思われ、そのこと自体は僕も否定しませんが、一方、それだけでは、現代の独学の内容としては狭いとも思います。
また、僕の体験によれば、独学は、一方的な知識の「取り入れ」にはとどまりません。
独学は、

  1. まず、一方的な「学び」ではなく、双方向的な「対話」でもあると思います。
  2. また、学ぶという場合、とかくその内容、たとえば書物であればそこに含まれる「情報、知識」が問題にされがちですが、学びの対象は、内容のみならず方法ないしスタイルでもあると思います。
  3. さらに、学びの「内容」についても、知識丸暗記という部分の意味は小さくなっているし、今後新たな情報システムやメディアの進化があれば、その傾向はさらに加速されるでしょう。

独学の重要性が高まっている理由の一つに、大学をはじめとする既成の高等教育システムが、現代社会において必要とされる先のような意味での柔軟でかつ深い「知」を十分に提供しえていないのではないか、という問いかけがあると思います。

もちろん、大学等の高等教育機関で学んだことは、実務においても、一つの有力な基盤にはなるでしょう。

しかし、たとえば、

  1. 新たな視点から既成の事柄に疑問を抱き
  2. それを的確かつ明確な課題としてまとめ
  3. その課題に新たな解を与える、また、
  4. その解を、さまざまな企画や製品等の目にみえる成果として実用化し、

あるいは、書物や作品として実体化するといった事柄については、既成の教育システムの中でそれを学ぶのは、残念ながら相当に難しいのではないかと思います。
今述べたような能力は、世の中のほとんどの人々がたずさわっている実務においても、あるいは社会生活や市民としての生活、活動一般においても、何事かを成しとげるには、ことに新しいことを成しとげるには、必須の能力です。そして、社会の高度化、情報化、国際化の進展に伴い、その必要性は高くなってゆくばかりです。

しかし、大学教育のような、既成の枠組みの強い、かつシステム化された教育によってそれを学ぶことには、一定の限界があるのではないかと思うのです。

そうすると、社会に出てから本質的な事柄を学ぶには、また、特別に恵まれた環境にあるわけではない多くの学生が本質的な事柄を学ぶにあたっても、独学は、非常に重要な事柄になってきます。

情報の海をいかに泳ぐべきか?

インターネットには、功と罪の両面があり、独学という側面からこれを利用する場合にも、その両面を客観的にみてゆく必要があると思います。
けれども、誰もが情報を発することができるというメリットは、ネット上に玉石混淆の情報が満ちあふれ、人々が匿名の不確かな情報やその挑発的な論調に左右されやすくなるというデメリットと表裏でもあります。

ことに、対話、学びという側面からまず注意しておくべきは、インターネット情報の膨大さからくる「コントロール不可能性」、そしてその一般的な「浅さ」でしょう。

鶴見俊輔は、「哲学の文献が多くなりすぎてから、哲学の質が落ちた」と書いています。意識は、深いけれども狭いものであり、その意識で人間が処理できる情報には限りがあるので、「多いからいい」ということにはならないのです。

インターネット時代は、情報流通のあり方を大きく変えました。しかし、僕は、総体としての書物についていえば、インターネット時代においてもその固有の価値を失うものではないと考えています。ことに、独学という側面からは、書物の重要性がなおゆるぎのないものであることは確かでしょう。

その理由は、近代以降における知識と思考の中心的な媒体となった書物には、
①深い思考・思索
②世界や物事を、日常生活や既成の思考の枠組みを離れた、客観的で透徹した、ある意味で醒めた視点から見詰める姿勢
③長いスパンの中で考える姿勢といった、リベラルアーツの中核となる精神のあり方が結集しているからです。


僕自身長く書物を書いてきて思うのは、書くための情報、執筆の参考にできる思索(それはまた、独学において吸収すべき思索でもあります)のうち本当に深いものは、ほぼ書物によってしか得られないということです。

思考や感覚、ことにその深い部分をまとまったかたちで伝えるには、おそらく、書物という形式が群を抜いて適しているからでしょう。

人は、よく、「自分の世界、書物の世界に閉じこもっていたのでは十分に学ぶことはできない。書物を捨て街へ出てこそ学ぶことができるのだ」といいます。

僕は、自分自身の経験から、この言明は半分あたっていると思います。確かに、広い世界に出てこそ学ぶことができる事柄も多いでしょう。
しかし、人間には、逆に、自分なりの場所を物理的にも精神的にも確保していて初めて世界を理解することができるようになる、つまり、情報の海を自在に泳ぐことができるようになるという側面もあると思います。

物事を受容、検討、分析、批判し、そこから自分自身のものを汲み上げてゆくためには、それが可能になるだけの「自己」がまず確立していなければならないからです。

みずからの拠点のうち物理的なものとして重要なのが、書斎と蔵書等のコレクションでしょう。独学というのは、言葉のとおり、 「一人で学ぶ」ことを基本としますから、たとえ机一つと本棚一つ、そして周囲の空間だけであっても、自分の場所があったほうがいいことに間違いはありません。自分の独立した場所をもち、そこでの時間をもつことが、独学のための最も基本的な環境整備となります。

一般的にいっても、独学の成果、リベラルアーツ関連情報については、その整理とアクセスの確保がきわめて重要です。せっかく蓄積された情報も、制御不能になってしまうと、もっていることの意味に乏しくなりますから、常に、全体をコントロールでき、どれにでもアクセスできる状況にしておくことが大切なのです。

これは、蓄積されるものの量が大きくなればなるほど、重要なポイントになってきます。

書物や作品を「読む」技術の基本

「読む」技術、すなわち、書物を読む技術、また芸術等受容の技術についてまず知っておくべきことは、書物や芸術、すなわちリベラルアーツの内容を成す広い意味での「作品」は、誰でも最初から「読める」というものではないということです。

もちろん、識字率の高い日本では、誰でも、活字を追うことはできるし、読んだものについて何らかの印象をもつことはできるでしょう。

しかし、
①独学の対象として意味のあるような相当の水準をもった書物を選び、
②自分なりの「対話」が成り立つようなレヴェルでそれらを深く読んで消化、血肉化し、③さらには、それらについて自分なりの「批評」を行った上でみずからの「知」の体系の中に位置づけ、
④そうすることによってインプットをアウトプットにつながるようなものにしてゆくためには、それなりの、あるいは相当の訓練が必要です。

つまり、それは、一種のコミュニケーションの技術なのです。そして、本書は、そのような技術の全体を体系的に説き明かしてゆくことを大きな目的としています。

また、こうしたコミュニケーションの技術や方法は、リベラルアーツ全般についても同様に当てはまりますし、さらに、世界や人々と接する方法やそれらを教師、反面教師として「学ぶ」方法にもつながってゆくものなのです。つまり、「読む」技術は、人々や世界と意味のある対話を行うという意味におけるコミュニケーションの技術の一環でもあるのです。

書物の読み方については、よく、濫読と精読という二つの読み方が対比的に説かれます。結論からいうと、独学という観点からは、この二つの読み方について、バランスをとりながらうまく統合してゆくことが必要だといえるでしょう。

独学にあたっては、最初はおおまかなもの、限られたものでもかまわないので、こうした自分なりの関心、自分なりのテーマをもつように心がけることが有意義であると思います。

書物や作品と「対話」を行ったら、どんなかたちでもいいからそれを書き記し、残しておくことが、独学においては非常に重要です。これをしておくか否かによって、それらに関する記憶、あるいは感覚として定着されるものが、大きく違ってくるからです。

しかし、記録の意味はそれにとどまりません。より重要なのは、むしろ、こうした記録を作る過程で、書物や作品と行った「対話」の内容が、風景や人物を写真に撮ったりスケッチしたりしたのと同じような鮮明な輪郭を伴って、「記憶に定着される」、「脳の中にも記録される」ことにあると思います。

それでは、以上のような独学の方法について、リベラルアーツ一般と区別した厳密な意味における学問の場合には、何か違いがあるのでしょうか。
結論からいうと、ことに僕のような方法をとる場合、リベラルアーツ一般の場合と学問の場合とで、明確な相違まではないと思います。逆にいえば、この書物で論じている僕の方法自体が、その基本においてかなりの程度に学者的なものであり、その柔軟な応用なのです。

あえていえば、学問の場合にことに気をつけるべき点としては、次のような事柄が挙げられます。これらは、 「読む」技術にとどまらない学問全般についての留意事項になります。具体的には、

①学問の場合には、まず、その方法論をしっかりと身につける必要があること、
②文献や資料について緻密な「読み」が必要とされること、
③客観的な事実に基づいた確実な推論によって論理を積み上げる必要があること、
④書物や論文の書き方についても論理の流れを重視したそれが要求されること、
⑤文献の引用等の形式にも厳密さが要求されること、

といったところでしょう

書物や作品から、内容・方法・思想・発想を学ぶ

書物については、多くの読者はその内容を問題とします。これは当然のことです。
しかし、実をいえば、対話や学び、その前提となるテクストの客観的な把握という観点からは、それ以外の要素も非常に重要なのです。なぜなら、内容と普通にいわれるものは、要約すれば「知識」にすぎないからです。

そして、読書や鑑賞に慣れた人々、ことに、そこから得たものをみずからの新しいアイディアや創造に生かしている人々が、書物や作品と対話し、学ぶというとき、実際には、内容以外のこうした要素から学んでいる部分が大きいのです。

書物でも、芸術でも、その「内容」と、「方法やスタイル」とは、不即不離です。
すぐれた書物は、内容があるだけではなく、その語り方・スタイル、あるいは論理や感覚の流れにおける方法論においても、独自のものをもっています。

書物や芸術の根本にあるこの思想を読み、そこから生まれる発想を学ぶことによって、独学は、その深さ、厚み、広がりを増します。

リベラルアーツと接する際の三つの重要事項

第一に、問題は数ではありません。対象に向き合う際の姿勢が重要です。

しかし、一方、第二には、多くの書物や作品と接し、それらを体系的、横断的、立体的に位置づけてゆき、その総体から得られるものを増やしてゆくことも大切です。

第三には、独学の対象となるジャンル、カテゴリーはできる限り幅広くとっておくことをおすすめしたいと思います。その時々、年齢や環境によって、具体的にどんな対象に興味が向くかは相当に変わってくるからです。

持続性をもって、長いスパンで、広い範囲のリベラルアーツと接してゆくことが、独学の要諦の一つといえるでしょう。

実務・人・世界から学ぶ─僕自身の体験から

人間というものは、実際には、その大枠が遺伝と環境によって規定されており、環境についても、子ども時代のそれ、ことに両親との関係が決定的です。そうすると、結局、性格も能力も、両親と子ども時代によって相当程度に決まってしまうわけです。

ですから、そのことを正面から見据えた上で、あとは、どのようにそれを自覚し、その地点からいくぶんなりとも自己の世界を発展、展開してゆけるかが勝負だということになる気がします。

第1章でもふれたことですが、実務における「教育」の多くは不十分です。ちゃんと教えてもらっていないという不満をもたれる方、もたれた方も多いことでしょう。しかし、実をいえば、そうした穴だらけの教育状況こそ、「適切な独学の場所」であるかもしれないのです。

僕が体験した四〇年余り前の司法修習生教育は、まさにそのようなものでした。司法研修所では書面本位の詰め込み教育が行われていましたが、それも今ほどぎちぎちではなく、一定のゆとりがあって教官の裁量にゆだねられている部分が大きかったですし、修習期間の三分の二を占める裁判所等現場での修習などは、それこそ穴だらけであり、「やりたい人はどうぞ勝手にやってください」という雰囲気だったのです。

しかし、修習生の中の勉強熱心な者にとっては、判決書等の起案以外に、たとえば供述心理学や鑑定に関する書物、今とは違って相当に野心的なものもあった法学研究書、論文など、各種の専門書や文献を読む時間が、いくらでもありました。
また、法廷傍聴なども、不思議なことですが、裁判官の詳しい解説などなかったからこそ、教育を離れた興味をもって見ることができたような気がします。

こんなふうに、実務における「教育」などというものは、企画されたものよりも、学ぶ者がみずから汲み上げるもののほうが、段違いに大きいものなのです。

このことは、知っておくとよいと思います。なぜなら、人間は、企画された事柄には「意識」でしか接しないのに対し、企画されたのではない事柄については、「無意識をも含めた広い領域」で反応、経験するものだからです。

前の項目で論じた事柄と関連しますが、実務を学ぶ場合、それに打ち込むとともに、一方では、それから一歩身を引いてその全体を客観的に見詰める視点をももつと、さまざまな事柄がよくみえてきて、独学の意味も深まると思います。

これは本書で繰り返し述べていることですが、物事に対処するには、学ぶには、視点は、ただ一つではなく、複数あったほうがいい、そのほうが物事の本質や状況がよくみえるし、学べることも大きく、深くなるといえます。

パースペクティヴ・ヴィジョン獲得のための方法・技術

僕は、プラグマティズム的な見地から、三つの柱を立ててみたいと思います。
の三つの柱とは、
①自由主義と保守主義
②観念論(演 えん 繹 えき 論 ろん )と経験論
③唯物論(還元論)と神秘主義です。


三つの柱に従って自分のおおよその思想的な立ち位置を考えておくと、そこが定点となって、あなたが独学を行う場合の対象を選ぶ場合に、また、その対象から何をどのように学びたいか、どのような対話を行いたいかといった事柄について考える場合に、役立つはずです。
以下、本書の最後の部分では、僕がこれまでに本書をも含めた多数の一般書や専門書で論じてきたことのうちから、「独学のための基本的技術・ヒント」になるような事柄を、なるべくわかりやすくかつ簡潔にまとめつつ語ってゆきたいと思います。
三七の項目を立ててみましたが、それらを通じての共通のメッセージは、「物事をみる目を深めてください」ということに尽きます。世間の多数を占める考え方や感じ方は、多くの場合、かなりおおざっぱなもので、権威主義的、事大主義的な傾向も強い。そして、ごく普通の人生を送るには、それでもいいのかもしれません。

けれども、あなたが、「独学によって自分を深めたい。何か自分にしかできないことを見つけたい。何かオリジナルなものを創造したい」と考えるなら、とりあえず、ここに掲げた事柄を虚心に読んで、自分なりに検討していただければと思います。そこには、何かしらあなたにとって役立つことがあるのではないかと思うのです。

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教養を血肉化する方法と戦略

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著 |瀬木 比呂志 2750円(税込)

ページ数:498ページ
発売日:2020/4/17
ISBN:978-4-7993-2596-4

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著者紹介
1954年名古屋市生まれ。東大法学部在学中に司法試験に合格。1979年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務。2012年明治大学教授に転身、専門は民事訴訟法・法社会学。在米研究2回。芸術諸分野、リベラルアーツについては専門分野に準じて詳しい。著書に、『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』『民事裁判入門』、小説『黒い巨塔 最高裁判所』(いずれも講談社)、『リベラルアーツの学び方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『教養としての現代漫画』(日本文芸社)、また、『民事訴訟法』『民事保全法』(ともに日本評論社)等の専門書主著6冊、関根牧彦の筆名による4冊の書物等多数がある。『ニッポンの裁判』により第2回城山三郎賞を受賞。

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エリート裁判官として30年以上にわたり第一線で活躍したのち、学者に転身するとともに作家としても数多くのベストセラーを執筆する著者が、多方面に及ぶその活躍を可能にした自身の「独学」の方法のすべてを初めて開示する。膨大な量の本や映画、音楽などからインプットしてきた著者は、とりわけ独学の手段として「リベラルアーツ」を重視する。その血肉化を主眼とする「独学術」は、ビジネス上の効果はもちろん、それにとどまらず、膨大な情報があふれ返り、数年先が予測不可能な現代を生きるすべての人々にとって、強力な「サバイバルスキル」となるだろう。

本書の構成:
第1章で「独学」の必要性について問題提起したうえで、第2章ではインターネット時代においてリベラルアーツを含めた現代社会の莫大な情報と接するための方法について論じる。
第3章では、実践編として、書物を中心に「対象を選び、読み、記録する」ための具体的技術・方法を明らかにし、さらに第4章で、多数の実例に基づき、書物はじめリベラルアーツ全般をどのように読み、対話し、学ぶべきかについて詳細に解説。第5章では独学の対象範囲を拡大し、誰もが普段行っている実務、また人々や世界からじかに学ぶ方法について説き、最後の第6章では独学のための基本的技術・ヒントを37の重要項目中心にまとめる。
目次とキーワード
第1章
─ 独学が必要な理由
第2章
─ 情報の海をいかに泳ぐべきか
第3章
─ 書物や作品を「読む」技術の基本
第4章
─ 書物や作品から、内容・方法・思想・発想を学ぶ
第5章
─ 実務・人・世界から学ぶ―僕自身の体験から
第6章
─ パースペクティヴ・ヴィジョン獲得のための方法・技術